ちょっと瓦の歴史を・・・

鬼瓦出所不明「考古学講座第九巻」より関野貞


古代中国


瓦が[歴史?]に出てくるのは、歴史の始祖でギリシャのヘロドトスそれと司馬遷の「史記」ですが、その「史記本記」のそれはもう最初といっていい「五帝本記」尭・舜のはなしです。

 舜は「河浜で瓦を作った・・・。」と、尭が「政治を任せられるものは居ないか。」と四嶽に聞いたときに、四嶽は「・・・・河浜に瓦を作った時、河浜の瓦器いびつな物がなくなり、舜のいるところは、一年で村となり、二年で邑となり三年で都となりました。」 いって推薦した。 その後、舜も帝位につくのであるが、聖賢が瓦を作るといびつな物がなくなると言うのも興味深いです。(では、現在の政治はどうなのだろう?) その後、禹(夏禹)が帝位につき夏、殷、周とつづいて行くのです。

饕餮文半瓦当


中国でも古くから瓦片の出土が見られるようで饕餮文の半瓦当や、鹿や鳥などの獣文の半円形の半瓦当がふるいものとされ(考古学者と言うより書家等のためにも収蔵されていて拓本が出版されたりしています。) その後に、丸くなり「千秋万世」などや秦の始皇帝の阿房宮の古基からの出土で自体からして秦代のものと言われている瓦(書かれている文面の思想は漢代の物という学者も居る)すらります。また漢代には蕨手文を配したりもしたのだとか、瑞鳥や吉祥文字に配される為この蕨手を雲気・瑞雲と考える学者もある、そうであるなら近世から昨今までの鬼瓦の雲形までつづくとなるとなんと深遠な思想だろうか。 唐代になると単弁複弁の蓮華文の瓦になってしまう。

朝鮮半島でも、当初は漢代の影響を受けた蕨手や吉祥文字のようだったのが、次第に蓮華文になるのだが、日本に伝来する頃の高句麗・百済・新羅でそれぞれ特徴のある瓦当が描かれている。 韓国では土器と須恵気の間に瓦状土器と呼ばれる土器があるそうですがこのあたりに詳しい方はお教え願えれば幸いです。


日本へ・・・。

元興寺

日本への瓦の伝来は、飛鳥寺の建立時(588)とされて百済からの仏教の伝来(仏舎利)共に寺工と共に四人の瓦博士が来朝していると「日本書紀」にあるが、その三十年前に向原寺が建てれていて、そこからも同時代の瓦が出土しているそうです。 飛鳥寺の瓦の瓦当は韓国の扶余で発掘される同時代の瓦と似ているのもその交流の裏付けになるようです。

この頃はまだ軒平瓦に文様は無かったようで、先端部は二枚重ねにして葺かれたようで、その後に出てくる、重弧文軒平瓦の原型になったのではないかと考える学者Modul.jpgもいます。 また、瓦に丹(水銀が原料の赤い塗料、先年「水銀朱」と言う表現をさる発掘の報告で聞いたのですが、その色が丹色なのかそれとも朱色なのか、一方的なマスコミ報道で質問することは適いませんでした。)が着いていたそうです。丹は「青丹よし」という奈良の枕詞にある「丹」であるにほかありませんね。 現在でも軒瓦は二重なのですが、軒平瓦に垂れが出来たのはその下段の瓦が飛び出さないように出来たと言う人もいますが、軒平瓦の当初の形状を考えるとちょっと首を傾げますね。

山田寺出土瓦
垂木先瓦、と言う物も有り現在では金属製になってしまった垂木先の飾りも当時は瓦で焼かれた物だったのです。もちろん隅木の先にもあります。 棟には鵄尾が乗っていたそうです。 この飛鳥寺別名法興寺とも呼ばれたようで、養老二年(718)に平城宮に移され元興寺と称される、その極楽坊には当時をしのばせる「行基(ぎょうき)葺き」が残っている。 これが、瓦葺きの古い形式なのであろう。
以前父が、瓦屋の会合でさる瓦屋さんがこれを「こうき」と呼び、首を傾げていると「おまえ知らないのか?。」と・・・。よくよく聞くとどうやらこの「行基葺き」のことのようなのである。その瓦屋さんの不勉強さに閉口してしまったそうである。 あくまで「ぎょうき」で、其の名のもとになったのは当時、行基菩薩とまでよばれた名僧であるが、現在でもこの様な形式の瓦は、西洋風のスパニッシュ瓦として残っているので、お寺にスパニッシュ瓦が葺いて有ると言わないだけ良いのかもしれない。
spnishスパニッシュ瓦


法隆寺のこと。
法隆寺の鬼 世界遺産にも指定されている、法隆寺の金堂についての屋根や瓦に関したは問題も多々あるのであるが、どうもあの鬼瓦については気になって仕方がないので触れておきたいのです。 当初法隆寺でも棟には鵄尾が乗っていたと言う意見が有るのです、子供向けですが、草思社で出している「法隆寺」(西岡常一 宮上茂隆 イラストレーション穂積和夫)では金堂の屋根に鵄尾乗せてしまっているのです。他にも「金堂復元模型」や「断面図」が、「原色日本の美術」(解説文、久野 建)に掲載されています。 そこここでこの事を質問すのですが、去る先生は「へんてこりんな鬼が乗っている。」とは言いましたがそれ以上はお答えなら無かった、奈良の瓦屋さんでは「法隆寺で鵄尾が発掘されていない。」と・・・。ただ、若草伽藍では鵄尾の破片は発掘されているのです。 思うに、再建される前の、若草伽藍の法隆寺には鵄尾が乗っていて、再建された法隆寺には鬼瓦が乗っていたのだろうか?。
南大門のあたりから出たと言われる鬼瓦は、桃山のころに流行した城などに着けられた鬼と似ていて、城型と呼ぶ瓦産地もあるのですが、その下に垂れ下がった物が、現在までつづく雲足型の鬼瓦のもとの形ではないかと言う人もあります。これに似た鬼も伽藍の中で見ることが出来ます。
近頃。平城宮の朱雀門の復元がなされた、その屋根瓦の奇麗さにはいささかがっかりしたのだがそれはさておき。 瓦が、宮殿建築に使わらたとされるのが「藤原宮」と言われている、その藤原宮もわずか十五年で平城宮に遷っているのですが、その平城宮の宮殿にはもう既に「玻璃瓦」が使用され、「玉宮」と呼ばれたそうです。 大仏の開眼と大仏殿が作られると、日本中に国分寺が作られ一気に瓦が日本中で作られる様になるのですが、其の瓦は種々様々な文様になって行くのです。
鎌倉時代なると
asitukoni.jpg建築技術では禅宗様などの変化の有った時代ですが、関東近辺に残る禅宗様の寺院は茅葺きで有ったり檜皮葺きであったようなのですが、この頃に瓦も燻しが施されるようになったそうです、更に特徴的なのは平安期からの浄土思想からなる鬼瓦の形成でしょう。瓦にとっては、鬼瓦の時代と言って良いでしょう。 「古来、鬼瓦は仏師が作ったので鬼ではなく神獣であったが、この頃に瓦工が作るようになったので俗化して鬼になってしまった。」などと言う意見もあるが素直に信じがたい意見ではあります。仏師も瓦師も同等の職人であった時代です、とは言え来朝当時には「瓦博士」と呼ばれたのですから。 四天王や十二神将に組み伏せられていた鬼達が、この頃には改心して屋根の守りに着いたのでしょうか。

この鬼瓦はその後、形を変えて民家でも使われる様になり古くは奈良の今井町にのこる瓦葺きの古い民家のように「布袋」「恵比寿」「大黒」「分銅」「茶巾袱紗」などと意匠溢れる物が多く微笑ましく思います。
流山の鬼これは、比較的新しい物ですが流山の町家の大黒様の鬼瓦ですが、反対側には恵比寿様に大きな鯛を抱えています。「猫」の鬼瓦?を乗せた茶室があったのを思い出したのですが、何処の何という茶室だか失念して思い出せないので、ご存じならお教え願います。

他の民家でもそうであるように、仏寺以外では、あまり鬼瓦を使わないのが一般的のですが、最近のハウスメーカーなどでは平然と住居に鬼面の鬼瓦を使うのですがいかがな物かと思ってしまいます。 それでなくても、鬼瓦など専門に作っている瓦の窯元や鬼師と呼ばれる職人さんは、もう少し柔軟な発想をして貰いたい物ですね。


安土桃山時代には城造りが盛んになり、当初戦闘防衛用の山城が次第に権威の象徴とした目的か威武と優美を競うようになってきます。其の端が信長の安土城なのでしょう。 安土城では青瓦に金の瓦が使われたルイス・フロイスなどの当時の宣教師などが書き残したからしょう。金の瓦は、漆で金箔を張り付けた物だのですが、問題は青瓦です。 青い瓦は、「信長公記」に唐人一観にと瓦を焼かせた。 私の見た本には瓦は今まで燻されていなかった瓦が、この頃から燻される様になった言われています。また別の本には、鎌倉時代からだと書かれた物も有りますし、奈良の瓦屋さんもそう語っていまる方がいました。

聚楽第 唐人一観の瓦が燻されたとされる本は、この頃になると古来からの製法に有った「布目」がみられなくなった事も書かれています。 さらに江戸時代(寛永)の頃に出版された「天工開物」に「水を使って転銹する・・。」とあるそうです、その転銹の方法も、焚き上がってから松の枝葉等油脂の多い燻し用の燃料を入れ焚き口を塞いでから窯の前下部の燃焼室に大量な水を注入する。 すると三つの効用がある、まず燻されて色の付いた瓦に高温の窯に外気が入ると変色する恐れが有るが、早く冷ますことでこの危険を回避する事が出来、また窯が早く冷めればそれだけ増産できる、更にである、水を注入することで大量の水蒸気をが発生する、するとその噴気の中でグラファイト室の皮膜が瓦の表面に付きやすくなるそうです。 かの一観もこの様な方法を採ったのでは無いかとも書かれています。

現在と同じ様な、銀色の瓦になるのは江戸時代の中期から後期に、鬼瓦(棟飾り瓦)や軒丸瓦など素地の仕上げに鏝で磨いて焼くと銀色になるのを発見したのです。 耐火度の高い粘土でないと発色しないので刷毛土といい表面だけに塗り発色させる方法が考案されたり、江戸時代以降の急速な需要の増加と共に技術革新も進んで来たのです。
ただ、燻し瓦の製法等で窯を急速に冷やすことは焼きしまりは無くなったり、また寒冷地や積雪の多いところでは、瓦に染み込んだ水分が瓦の中で凍結して、瓦をフレーク状に割ってしまう、「イテ」(凍破)ので寒冷地等では、二度焼きで釉薬を掛けた物も作られる様になってくる、早い物は会津城が、一般用では石見地方あたりから広まったようで一般に石州瓦と呼ばれたりしています。


奈良、京都、三州などだけでなく日本各地でも多く瓦が作られる様になってくることですが、此処からは地域も、私の地元「江戸・東京」が中心になります・・・。

関西では奈良の今井町の等のように領主に支配されていない独立した町では早くから瓦が葺かれていましたが、江戸の町が発展してきますと、町屋民家でも瓦を葺き出す人がでてきます。 慶長のころには本町に丁目の滝山弥次兵衛が駿河町から出た大火の後に屋根の半分に瓦を乗せたようで、三浦浄心の「慶長見聞集」から、「諸人に秀て家を作くらんと工(たくみ)、海道表棟より半分瓦にて葺き、後半分をば杉にて葺きたり。皆人沙汰しけるは、さても珍らしや奇特哉と、人褒美して異名を半瓦弥次兵衛という。是れ江戸瓦葺きのはじめなり。」と有り、「武江年表」(斎藤月岑)には正保二年の(1645)に「江戸にてはじめて瓦を焼く(寺島氏某、中氏彦六というもの、江戸瓦師の元祖という)」とあるそうです。

江戸も初期の頃から瓦葺きの町屋が有ったのですが、その後、武家屋敷でも土蔵等のほかは瓦葺きが禁止されたりもしましたが、明暦の大火 明暦三年(一六五七)正月一八〜二○日、(振り袖火事)の後でもである。町屋での瓦葺きの解除、奨励は「大岡政談」の一つだが享保年間の吉宗時代に置かれた目安箱の投書により、解除奨励策となったようなのでなまじ見てきたような嘘ではなさそうでも有ります。


桟瓦の発明。帝釈天の細丸瓦 この頃は「火除瓦」「松皮葺き」と呼ばれる平瓦だけをならべた物、やその丸瓦を置く部分に漆喰や荒木田土を置いてあるだけと言う工法だったようです。 (他にも、上丸瓦が小さく、細丸等というのも有ります、) こういう屋根が、明治時代でも都内の寺院に見受けられたようです。(私も古い写真で見たことが有るのですが掲載された本を失念してしまったのです。ご存じの方はお教え下さい。) これを、近江の瓦工 西村半兵衛がわざわざ江戸まで「火除瓦」「松皮葺き」を見に来て、今で言う「桟瓦」を考案したと言われています、「西村由緒覚書」には延宝二年(1674)ですから、享保の江戸の町にはこの瓦の型が使われていたと思います。 この瓦を関東では「江戸瓦」関西では「簡略瓦」言われたり、「ならべ瓦」とも言われたようです。

江戸切り絵図 江戸ではじめて瓦を焼くのが正保二年の(1645)なのだそうですが、 江戸の町の情景を生き生きと描いている池波正太郎氏の小説「剣客商売」の「辻斬り」の編に「今日七ツ刻に、本所中ノ郷・横川町の自分の道場へまいられたい。余人をまじえずに、勝負を決したい。勝負は真剣にて。」との仇敵からの果たし状を受け取り、かの剣客 秋山小兵衛、大二郎親子がそこへおもむく情景を 「中ノ郷・横川町は法恩寺の対岸の、横川の流れに沿った西河岸になっている。 このあたり、古くは武州・葛飾郡・中ノ郷村とよばれていたが、貞享年間に幕府が江戸市中の内として、代地をあたえたものである。 むかしはいちめんの田地だったそうであるが、地所が低いため出水が多く、このため横川べりに土手を築き、瓦焼きの職人たちの家や瓦置き場が密集していた。」 と表現している。 「昔の江戸切り絵図に柳島二丁目と浅草二丁目あたりに瓦町があったようで、「江戸砂子」(菊岡沾涼)に、元和二年(1616)に瓦町の町名が出来たとして、隅田川に近く粘土も採れお城に近く運搬に便利なので瓦焼きが多く住んでいたからである、貞享年間に公用地になったので瓦屋は追われ町名だけが残った。」 また、江戸名所図会(天保五〜七)の巻の六の「長昌寺」に瓦窯が煙りをあげている長谷川雪旦の図画が描かれていたり、「江戸切り絵図」にも「此辺瓦ヤクナリ」とあるから、そこではまだ焼いていたのであろう。 その近くはもう橋場で向島への渡し場であり、かの剣客達が行き来をするのであるからさぞ煙たかったでしょう。

参考文献「文政町方書上」ほか(墨田区誌「すみだ」より抜粋)

待乳山 柳島

幕末以降には、此のあたりだけでなく南に本所五つ目(亀戸)伊予橋、北に向島須崎(東向島)他に二ノ江、柴又、金町、小台、川口、上戸田、蕨、鴻の巣、の地名が見え,常陸の土浦、上州の藤岡、相州の横須賀の地名も「窯元諸用留」(万延元年〜明治二十三年)「窯元記録帳」(慶応元年〜明治十三年)残っているそうです。東京近郊では我が家近く谷河内や三郷、溝の口瓦屋さんが唱和40年代 まで造っていたようですが、以後瓦生産地は深谷、児玉、藤岡、や三州などの瓦が、運ばれる様になり、更に戦後、高度成長期には機械化の進んだ三州産が多くなり釉薬瓦の流行で一気にその主流が三州産になっていってしまいます。

川越


明治になると、建物に関する規制も無くなり豪商や金持ちなどは、町屋に大きな棟や鬼瓦を乗せたり大きな破風板を着けたりして、その屋根の豪壮さを競いあったようで、浮世絵に出てくる家や、川越の町屋など江戸近郊の町にはその名残を見受けることが出来ます。
更に西洋建築が入って来て、当初に桟瓦葺きの洋風建築もフランス人ジェラールが横浜で煉瓦や瓦を焼きはじめたりします。 煉瓦建築が流行すると、その煉瓦を製造するのにも、この瓦の窯元から転向したのか、有名な銀座の煉瓦は亀戸で焼かれたとも言われたいます。 その煉瓦建築も関東大震災の以後、無くなってしまいますが・・・・、

先年、駿河台のニコライ堂を見学する機会がったのですが、煉瓦造の建物なのですが屋根の部分だけが木造で、その部分に何かがあたり、破損して火が入ったのでその後屋根だけコンクリート造なおしたでそうですが、他の部分は今でも煉瓦造が残されていますが、同じ駿河台で保存の意見も多く出た明治大学の本館では、震災以後その主流となったコンクリート造なのですが、そのコンクリートに耐力が無いということで取り壊されてしまいました。
先年の神戸の震災の以後、その当時明治大学の建築科にいらした稲垣栄三先生が木造在来工法が、この煉瓦造の建築物の二の舞になってしまうのでは無いかと心配されていたそうですが、どうやら今回のスケープゴートは「瓦屋根」のようですね。
以後、瓦の流通は著しく悪化したのですが、此の業界も各建築学者も何ら手だてをしていないのでは、まさに煉瓦造の二の舞のになりかねないでしょう。

震災の後、土葺きの屋根瓦が落ちたのは関東でも神戸でも同じで、横浜の洋瓦のジェラール瓦が落ちていないのから、工部省営繕科の公案と言われる、(引っかけ桟瓦)が関東大震災後の大正十三年に内務省「市街地建物法施工規則」を改訂して、その 引掛桟瓦の使用を励行させたのです。 引掛桟瓦の生産が現在の主流ですから、その引っかけのある分おおくの葺き土を使うのですから、その葺き土の量も多くなってしまってもいるのです。 ただ、近年消費量の多い関西地方の意見かその引掛桟瓦の引っかけ部分はどんどん小さくなってしまってはいます、このため瓦は外れやすく風にも弱くなってしまったのでもありますので、瓦を釘で留める工法や棟に補強木材を入れる方法も薦めています・・・・・が?。 これは、関東震災後にもあったのですが、釘は錆びて爆発破壊をして瓦を割り、補強用の材木は腐食して、空洞となりかえって弱くしてしまいますが、現在は釘もステンレス製だからその心配はありませんが、屋根を貫通させてしまうのは、雨水の誘導や小屋裏内へのいヒートパイプとなり結露の原因にもなりますのでご注意ください。